「右にまけば閉まる。左にまけば緩む。」
これはネジを締めるときの基本的な感覚ですが、最近、この単純な構造が社会や国家のあり方にも似ているなと感じることがありました。「右」と「左」という言葉には、政治的な意味合いがあるのはもちろんですが、それ以上に、「締める力」と「緩める力」の象徴として考えてみると、今の社会がどちらに傾いているかを感じやすくなります。社会には、規律や秩序を重んじる「右の力」と、自由や個性を大切にする「左の力」があります。どちらかが悪いということではなく、どちらも必要で、バランスが大事です。ただ、ここ最近はそのバランスが少し崩れてきているように感じるのです。たとえば「個人の尊重」が過剰に強調されるあまり、少しの指摘でも「〇〇ハラスメントだ」と言われてしまったり、「それは私の仕事ではありません」と線を引かれることが多くなってきたように思います。自分を守るための行動が、結果的に周囲との関係をギクシャクさせてしまう。そんな光景を、私たちは日常の中でよく見かけるようになってきました。
教育の現場でも、同じような傾向があります。最近の学生の中には、「学ぶこと」そのものよりも、「単位を取ること」や「卒業すること」に主眼を置いている人が少なくありません。授業中の発言や議論よりも、いかに効率よく課題をこなし、出席要件を満たすかに意識が向いているように見えます。これは、「与えられた仕組みの中で最小限の労力で通過したい」という思考です。そしてこの思考は、そのまま社会人になっても続いていきます。社会に出たとき、「時間内に働けば給料がもらえる」という発想になるのも、ある意味で自然なことなのかもしれません。でも、本来は逆のはずです。「何を成し遂げたか」「どんな価値を生み出したか」に対して、対価が支払われるべきです。
そう思っていたある日、社会の身近な場面でふとそのことを再認識する出来事がありました。その人は、求められたことにはきちんと対応するものの、それ以外のことには一切関与しようとせず、少しでも自分に責任が及びそうな場面では、極めて慎重に距離を取る姿勢を貫いていました。一見すると、冷静で堅実な対応にも見えますし、その行動には一定の合理性もあります。ただ、その様子が「学びに来るのではなく、単位だけを取りに来る学生」と重なって見えてしまったのです。リスクを避けながら、必要最低限の成果を確保する。それも一つの働き方、生き方ではありますが、そればかりが広がっていくと、組織や社会全体の活力が失われていくのではないかと、ふと思わされた出来事でした。
私たちは、「与えられた時間の中で、どうやったらもっと良い成果を出せるか」と、工夫と努力を重ねてきました。そうした積み重ねが、過去の日本の経済成長や国際的な信頼につながってきたのではないかと思います。もちろん、昔がすべて良かったとは思いませんし、今の若い人たちにも素晴らしい感性や価値観があります。豊かな物資に恵まれて最低限の生活を維持する上においては、競争原理すら必要ないのかもしれません。しかし、社会全体が「緩み」の方向に傾いているとしたら、少しだけ「締め直す」意識も必要ではないでしょうか。
人権や自由が揺るぎない大切な思想であることは、言うまでもありません。誰もが安心して生きていける社会を守るために、それらは絶対に譲れない価値です。しかし、その価値を「盾」にして、自分の責任を回避したり、「やらなくてもいい理由」にすり替えてしまうと、社会全体の基盤が弱くなってしまいます。
昨今、「日本人ファースト」が話題となっています。このキャッチフレーズについて賛否を述べたいわけではなく、そこに込められた意図の是非を論じるつもりもありません。むしろ伝えたいのは、日本人が長い時間をかけて大切に育んできた価値観―たとえば、きめ細かく丁寧なふるまい、親切な心配り、相手を思いやる気持ち、そして協調を重んじる姿勢―そうした穏やかで誠実な人間性こそが、今こそ世界に向けて発信すべき日本の強みではないかということです。AIが驚異的なスピードで進化を遂げている今だからこそ、私たちは「正解」をただ機械的に求めるのではなく、人と人とのつながりや思いやりを大切にした、人間らしい心の通った社会を築いていくことが求められているのではないでしょうか。
それこそが、右にも左にも偏らない、本当の意味で“バランスの取れた社会”をつくる鍵になるのではないでしょうか。社会も国家も、教育も職場も、絶妙な巻き加減が必要です。そしてその調整は、他でもない私たち一人ひとりの意識にかかっているのかもしれません。