Column No.62 『 医療技術の進歩と人間性 』

近代医学の根底には、「機械論的人間観」がある。この考え方では、人間の身体をいくつかの部品からなる機械とみなし、病気は機械の故障と捉える。そして、故障した部品を修理するか、修理不能なら交換すればよいと考える。この発想が近代医学の進歩を支え、かつては助からなかった多くの命を救い、その人たちの生活をなんとか可能にしている。透析や腎移植はまさしくその典型であり、 これによって多くの人たちの生命が救われている。まさに機械論的人間観の勝利といえるだろう。

しかし、この考え方には負の側面もある。人間を機械とみなすことで、「心」が無視され、患者の意味や歴史、関係性といった本質的な部分に目を向けなくなってはいないだろうか。身体を部品に還元することで、専門領域ごとのテリトリー意識が生まれ、病める人間を一個の人格として受け止める意識が希薄になってはいないか。また、一部の機能の改善を目指すことで、かえって全体のバランスが損われる場合のあることもわかってきた。

 

こうした問題を背景に、機械論的人間観に支配された近代医学を批判し、人間の「心と身体の全体性」を回復しようとする考えも生まれている。人間を機械ではなく、一人の人格として捉え、歴史や意味、関係性を重視すべきではないかという問いかけである。

とはいえ、機械論的人間観を批判する際に注意すべき点もある。機械は生命に学び、生命を模倣することで、生命現象の理解を深めることに寄与してきた。自らの生命の中に機械を組み入れ、機械を「私」の中に統合している人間を考える必要があるのではないだろうか。

たとえば、「透析患者」と「透析者」を区別して使うことがある。「透析患者」は透析装置とは別の存在であり、装置によって治療を受ける立場を意味する。一方、「透析者」は透析装置と共生し、それを「私」の一部として受け入れている人を指す。実際、透析なしでは生きられない彼らにとって、透析装置は「私」の一部といえるだろう。ある透析者から「透析中の面会は、自分の内部を見られるようで恥ずかしい」という話をされたことがある。彼らは明らかに透析装置を「私」として受け入れているのだ。

これからの時代、多くの人がさまざまな機械を「私」の一部としながら生きていくことになる。義足をつけた人、車椅子を利用する人、ペースメーカーを埋め込んだ人、透析を受ける人…彼らは皆、機械と共生している。重要なのは、人間が機械に適応するのではなく、機械を人間に合わせることだ。人に優しい機械を作り、誰もが生きやすい環境を整えることが求められる。しかし、技術が進化する一方で知識のみに頼ると、患者の訴えに対して「理論的にはありえない」と考えてしまいがちだ。医療技術が発展すればするほど、「まだ解明されていないことがあるかもしれない」との視点を持ち、患者の声に耳を傾ける姿勢が一層重要になってくるのではないだろうか。

参考文献:成田善弘『心と身体の精神療法』金剛出版、1996年、pp35-39

北海道・東北ブロック理事 引地 誠

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